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城南歴史散歩

早良区に住んでいると、油山に源を発する金屑川、油山川が身近にある。また、早良区で最も大きな川は室見川であり、お隣の城南区(私の職場は城南区)には樋井川と七隈川がある。これらの河川流域に棲む生き物と共存しながら私たちは日々の生活を送っている。城南区は早良区、また中央区と南区、西区の一部とともに昔の早良郡であり、縄文、弥生、古墳文化の宝庫となっている。この地も開発が進んだが、今に残された自然や史跡等が消え去る前に私たちの記憶にとどめる仕事が大切になりつつある。早良区と城南区を生活の場とする私にとって、この記憶を保存する責任を感じる歳になった。そこで、仕事の合間に、カメラを片手に早良区や城南区を中心とした地域を歩き、残された自然や史跡を写真に収め、メモを残す作業をはじめた。少しずつではあるが、フェイスブックやブログに掲載しながら、紹介して行きたいと考えている。また地域共生学 (Studies on Sustainable Communities) の一環として、今後において様々な取組みと連携させながら、目的を達成したいと考えている。このような理由から、城南歴史探訪講座を受講するこ とにした。無料の講座はありがたいが、報告書の提出が義務づけられており、それに従い執筆することになった。
歴史探訪はまず川とそれに沿った丘陵から始める。桃崎教授の講義から興味を持った歴史的事実は、梅林と野芥のあたりは、祖原辺りで陸揚げされた大陸からの物品が運び込まれ、全国(九州と関西以西)からの人々が集い市が開かれた地域ということである。そうであれば、その荷はどのような経路で運ばれ、どのようなものが中心的な商品だったのかが興味深いところであろう。また、この地はその商品に更なる付加価値を与える技術を生み出した地域であるかもしれない。そのようにして富を築き、支配者となったものの墳墓が点在している地域でもあろう。これらの想定から、まず川と池と丘陵の状況を推察することから始めよう。
縄文の海進により、当時の海水面は今より2~3m高かったと言われている。また、野芥や梅林、片江の辺りは油山から流出する土砂で継続的に埋められてきたと考えれば、今より10mぐら い海抜が低かったとも考えられる。そうであれば、福岡大学、城南市民センターの周辺の低地は海であった可能性は高い。早良郡志(誌)によると「祖原の内は浅海が広がっていた」との記述がある。事実、草香江、荒江、片江などおそらくその地が渚であったような土地名が残っている。田島は浅海に浮かぶ島であり、その南には金山が小高い丘として存在していたと考えることができる。このような仮説に基づき、以下に示す地図上に、20mの等高線と10mの等高線を見いだし、10m以下の地域と20m以上の地域を浮彫りにしてみよう。
城南歴史散歩_d0282609_11195297.jpg
確かに20m以上の場所には小笹、笹丘、友丘などの地名が残り、10m程度の海抜にある土地には多くの池があり、弓掛池、烏帽子池、西の堤池、小袖池などが地図上に見える。この地帯は昔はもっと海抜が低く、湾入していたと考えれ ば、その後の油山の鉄を含む赤土の崩壊や樋井川や油山川に運ばれた土砂で埋まり、逃遅れた海水が閉じ込められ、池ができたと考えうる。この地図を眺めてみると、友泉亭付近から、東南側に海が入り、上長尾の辺りまで広がっている。片江はまさに渚であったと推察できる。現在でも 島巡橋から福大側を見ると緩やかな上り勾配になっており、友丘のバス停から神学校にかけても上り勾配が明確で、かつてこの付近が渚であった様子を彷彿させている。
上記の川についてみると、樋井川は東油山に水源があり、油山川と七隈川は西油山に発する。七隈川は下流で樋井川に合流し、油山川は金屑川、汐入川と合流し、博多湾に注ぐ。ただし、これらの川は、現在のように直線的に流れていた訳ではなく、蛇行していたと思われるし、また堰があった訳ではないので、海水もかなり奥まで入り込んでおり、そのため満潮時は水量が多かったと推察している。むしろ浅海の中に水が流れ込んでいた可能性もある。こう考えると、これらの川は、周辺の田畑を潤すとともに、水路となって物品の輸送に使われた可能性もある。また、城南区の油山麓に点在する池や沼は、昔はもっと大きく、数も多く、船着き場や漁場であった可能性もあろう。柳川のような湿地帯を想像すれば、その利用価値を今に知ることができよう。これらの沼池は、かつてこの辺りまで海進があったことの証拠であると講義で聴いた。 また、「祖原の内側は浅海である」との古文書の記述もこれを証明している。この辺りは湿地帯 として水生植物の繁茂した食料生産地帯であり、そこに棲む魚類も豊かだったと想像できる。最近まで多くの沼地が残っていたが、福岡大学の進出に伴い、多くの池が埋められ、駐車場を経て校舎が建ち並んだ。ここ20年で弓掛池も消えた。烏帽子池も面積が半減した。このようにして自然からの恵みは消えていったが、教育という形での人つくりシステムがこの土地に残ったといえよう。当然ながら、人口の増加が油山の斜面を浸食し、民家が海抜150メートルを越えて存在するようになった。
by fusus-21 | 2013-08-30 11:18 | 地域(歴史)