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九州の女王

女王 卑弥呼
九州の女王で一番有名といえば卑弥呼女王であろう。邪馬台国畿内説もあるが、やはり邪馬台国は九州であろうと思う。多くの人は水行10日の解釈で、魏志倭人伝は方向を間違っており、東を南と書いたとの説を支持して畿内説を強調している。しかし、旧唐書にあるように、「倭人は里程を知らず、日数で距離を数える」とある。一大率の置かれた伊都国周辺までは正確な里数で距離を示しているが、伊都国より南については、距離が日数に代わる。使者は女王国には足を踏み入れることができず、一大卒で倭人に聴取した内容で里程を記述したと思われる。水行10日とはどれくらいの距離か、斉明天皇は熟田津を3月中旬に出航し、3月25日に那ノ大津に入港したと言われる。この程度の距離が水行10日に匹敵する距離とすれば、不彌国から南へ水行10日の距離は推定しうる。九州しか考えられないという見解である。東に書き誤ったとしてもおそらく九州を出ない。卑弥呼は九州の女王である。卑弥呼が死んで、13歳の台与(トヨ)が立った。しかし、トヨに関してはそれ以降の話が伝わっていない。トヨは神功皇后(豊浦から飛幡を経て那の津に入った)ではないかとの説さえある。

神功皇后
神功皇后は香椎宮に陣を敷いた。新羅に出陣したあと帰還し、出兵した九州の武将をねぎらったあと、応神天皇となるイササワケと仲哀天皇(タラシナカツヒコ)の亡き骸を伴い、飯塚を越えて、田川(香春)を経て、宇佐に向かい、その後にクラナシの浜辺りから畿内に凱旋したと思われる。香春からみやこに入る途中に仲哀峠の名ががいまも残る。また、神功皇后が「飯塚」という地名の由来に関わっているとの一説がある。「神功皇后が、従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが兵士たちはなお皇后の徳を慕って、飯塚まで従い「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたと言う説がある」(飯塚市の観光ポータルから引用)。「いづか(いつか)再び逢える日まで・・・」から「飯塚」の名が産まれた。嘘でも良いから信じたい様な話である。

斉明天皇
筑紫の朝倉の宮で亡くなった天皇である。高齢でありながら畿内からはるばる筑紫へ。おそらく九州の将兵を白村江に出兵させる命令はナカツオオエでは無理があり、カリスマ性を有する女王の力が必要であったのであろう。この無理がたたり、斉明天皇は力つきた。浪速からの長すぎる航海(道後温泉での長い滞在)など謎がつきまとうが、筑紫に到着後は不吉なことばかりが起こり、勇猛果敢な女王もついに病に倒れ、68歳の生涯を閉じた。数年後のタイミングを外した白村江の出兵もついに実らず、さぞかし無念の至りであったと推察される。倭軍の指揮の乱れが敗因の一つとも言われており、自分が指揮を執ればとの思いが大きかったのではなかろうか。
by fusus-21 | 2013-09-17 00:43 | 地域(歴史)