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大伴狭手彦と安倍比羅夫

北海道に住んでいた頃、虻田郡あたりに比羅夫という国鉄の駅があった。その当時は、あまり気にかけていなかったが、最近、古事記や日本書紀に目を通すようになり、気付いたのであるが、どうもこれは阿倍比羅夫という大将軍の名からきているらしい。九州では、景行天皇の遠征による戦乱について風土記にでてくるが、どうも北国では安倍比羅夫が軍を進め、アイヌを討ったらしい。北海道(蝦夷)風土記があれば、この人が登場人物のメインの存在であったかもしれない。
658年(斉明天皇の4年)、比羅夫は軍船180隻で蝦夷に遠征した。津軽から渡島に攻め入り、戦略品のヒグマの皮と生きたヒグマを斉明天皇に献上したという。翌年、再度侵攻し、胆振から後志羊蹄を制圧し、郡領を置いたという。この地が比羅夫となっているのであろう。この頃の蝦夷の捕虜が朝廷に献じられているが、そのうちの数人は中国まで朝貢のため連行されたらしい。これは中国正史にあるので、どうもこのあたりの日本書紀の記述を裏付けるものとして興味深い。
662年には、ナカツオオエ(天智天皇)の命を受け、斉明天皇亡き後の処理として百済救援のために征新羅将軍を拝命し朝鮮半島に進軍したが、663年に唐と新羅の連合軍に敗れたのである。このように、この将軍は、蝦夷征伐では樺太にまで軍を進めているし、白村江にも遠征した。日本が大きく歴史上の節目にあったときに生きた将軍であると分かった。

上記に先立つ100年以上前、宣化天皇2年(537年)、大伴狭手彦は、新羅の任那侵攻に際し朝鮮半島に派遣され、任那・百済救援に活躍したという。肥前国松浦郡の娘子(おとめ)佐用姫との悲恋説話はこの時のものである(肥前国風土記逸文)。

以下に、山上憶良の歌3首

遠つ人 松浦佐用姫 夫(つま)恋ひに領巾振りしより 負へる山の名 

海原の沖行く舟を帰れとか、領巾振らしけむ 松浦佐用姫 

松浦潟の佐用姫の児が 領布振りし山の名のみや 聞きつつ居らむ 


欽明天皇23年(562年)、大伴狭手彦は大将軍に任命され、兵数万を率い、百済の計略を用いて高句麗を攻め、逃亡した高句麗王の宮に侵入し、多くの珍宝・武器などを奪って持ち帰り、武具並びに捕えた美女媛とその従女は蘇我稲目大臣に送り、稲目はこの二人を妻としたという。
安倍比羅夫のことと異なり、信憑性には乏しいが、一応国内外を移動した武将としての名を挙げておく。倭タケルは北関東から南九州くらいの範囲であるが、比羅夫は樺太から九州を経て、白村江にまで転戦している。しかも史実と思われる証拠もありそうだ。
by fusus-21 | 2013-10-01 14:15 | 地域(歴史)