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九州の武士団のチーム力が、史上最大級の大艦隊を押し戻した

元寇については高校で習ったが、1)元のクビライが親書を日本国王に送ったが、北条時宗が使者を打ち首にしたため両国の間が険悪になったとか、2)神風(台風)が来襲して元の大軍がダメッジを受け逃げ返ったとか、3)第一次侵攻(文永の役)のあとに防塁が築かれたとかの断片的なことしか記憶に残っていない。そこで、Wikipediaの情報から、いくつかに分けてまとめ、掲載してきた。

当時習った事実は間違いはなかったと思うが、当時知らなかった事実が分かったのは収穫であった。まず、クビライの国書を見たが、これが本物かどうかは分からないが、クビライが何を考えていたのかがよくわかった。確かに使者が還されなかったことに気を悪くしたようだが、それだけが原因ではなく、日本が中国には朝貢したのに、自分に対して無視を決め込んでいるのは腑に落ちないというのが第一の理由らしい。正直にそれを書く辺りは陰険な皇帝ではなかったらしい。写真もあったが、なにかおっとりした風貌には見えた。また、蒙古という国名を自ら使っていることには驚かされた。2)の神風が吹いたについては、例年やってくる台風が弘安の役の際に来たことは分かった。これはあくまでも台風らしく自然災害(ここでは災害ではなく、自然からの援助)ではあるが、それにしても九州の武将たちが一族郎党と共に、水際で防ぎ上陸を許さなかったことが一番大きかったと思われる。全軍が海上にいたために台風が大きなダメッジを与えたのである。3)についてはよく知っていたが、20kmにわたって築いた防塁の構造(外からは攻めにくく、内からは攻撃しやすいような)まで理解でき、さらに海上にまで上陸防止の杭などが打ち込んであったり、いろいろの工夫が、上陸を防げた要因と分かり、戦略的な土木技術の粋を結集させていたことも分かった。いずれにせよ、教科書には北条時宗の英断とか武士の力量が蒙古の鉄砲や集団的戦闘技術の前に苦戦したという記述が多かったが、今回読んだWikipediaでは九州の武士の強さが目立っており、蒙古を圧倒したと読めた。それに、日本的な「やあ、やあ、遠からんものは音にも聞け、近くに寄って目にも見よ!・・・・」と名乗りを上げてから一騎打ちをする戦法では、蒙古の組織的な戦法、特に鉄砲などの使用には対応できなかったとのことも聞かされていたが、どうもその辺りは違っていて、互角以上の組織的な戦法(100人程度の小隊による、寄せては返す波状攻撃)をとっていたと推察できた。この夜襲を含む組織的な襲撃は、蒙古の軍に精神的なダメッジを強く与えたと思われる。一騎打ち戦法はなかったと分かった。北条時宗の指示で戦場に向かった6万の大軍が、九州に入る前に、蒙古・高麗・南宋軍を一掃されていたのが歴史上の事実であった。最大の功績は、九州の武士団の団結した組織的な防衛で、元の大軍を領土深く上陸させなかったことであろう。この認識は、当時の教科書では触れられていない。九州の武士団が国難を救ったというのが歴史の事実とWikipediaから読み取れる。遠く離れた中央の視線ではなく、現場での取材を中心にまとめるべきであろう。九州北西海岸で起こった事実は海中考古学的に明らかにされつつあり期待したい。
by fusus-21 | 2013-10-06 22:38