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カテゴリ:地域(北部九州の古代)( 82 )

景行天皇行幸・・・熊襲を制圧するた旅

景行天皇は熊襲を制圧するために畿内を発った。周防国を経て、闇無付近に上陸し、国東半島付近の宇佐を経て、湯布院付近から緒方、日向から大隅半島、薩摩を経て、水俣、八代、天草を経て玉名に入った。玉名からは菊池、山鹿を経て、久留米の高良山あたりを凱旋し、浮羽、日田、玖珠などを進み、さらに宇佐を越えて、闇無付近に至り、周防から畿内へ帰還した。大雑把に言って、このように巡行したが、筑紫に入ろうとしなかったらしい。強大な政権、邪馬台国の全盛期かあるいは景行天皇が、畿内勢力の中ではミマキイリヒコ(崇神)とは異なる勢力であった可能性が考えられる。筑紫の日向から東征した神武の血を引く系統の天皇だった可能性もある。崇神は任那から来た勢力であるが、伽耶の血を引く神武とは異なる勢力として畿内を支配していたのかもしれない。古事記では、同時期にハツクニシラス天皇が二人存在している。崇神の後継は垂仁天皇であり、景行天皇は神武につながる系列の天皇とすれば辻褄が合いそうである。神武は任那の前身である伽耶の血を引いており、任那から来た崇神とは遠いが繋がりがあると言える。仲哀は景行の子であるから、当然ながら熊襲征伐に再来したと考えられる。しかし、息長足姫(神宮皇后)がなぜか参入し、熊襲を討つことはよくない。新羅を攻めるべしと神託を伝えた。それを納得しない仲哀は謎の死を遂げ、ここで息長足姫天皇(皇后ではあるが実質上の天皇)が取って代わった。神功皇后は景行天皇が遂げていない筑紫を巡幸福し、仲哀の死を伏せたまま、畿内に乗り込み、畿内瀬力を一掃して政権を奪取した。古代の大きな政変は、この後も続き、継体天皇が筑紫の磐井を倒し、畿内勢力の牙城を守った。また、蘇我一族と天皇家の争い、そして天智天皇と天武天皇の争いで百済系の天皇家が政権を守った。その後も南北朝の争いなどが繰り広げられるが、これらの戦いに九州勢力も多かれ少なかれ巻き込まれてゆく。





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by fusus-21 | 2016-09-11 18:22 | 地域(北部九州の古代)

磐井の建造した古墳

初めて磐井の古墳を訪れた。1年半にわたる畿内の政権との戦いに敗れ、殺されたと古事記に書かれているが、風土記には豊前市付近の山中に逃れたとあるので、ここが磐井の墓とは言い難い。作ったのは間違いなく磐井なのだろう。巨大な前方後円墳であるが、別区というのが設けられており、ここの石人、石馬は馬(猪?)を盗んだ盗賊の裁判の様子を表したものらしい。
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別区がこの古墳の特徴となっている。
またこの地域一帯の説明をするために歴史・文化交流会館があり、「磐井の郷」と呼ばれている。この長い平屋の後ろ右手に見えるのが岩戸山古墳、つまり磐井の古墳である。
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様々なイベントや子供向けの教育プログラムが実施されており、歴史体験場として活用されている立派な施設である。ここで、八女市などの情報を得ることができる。施設の職員が親切に説明してくれる。

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横に広がる公園的な広場には、10kmにわたる古墳公園の案内やトレッキングコースが示されており、まず、福島高校前でバスを降りてから、大きな案内看板に従って坂を登り、この施設で案内を受け、トレッキングや八女市内を楽しむのが良かろう。広々とした館内には、常設展示場もあり、磐井の戦争で畿内政権に破壊された石人の本物が展示してある。無残にも鼻が削られたり、腕がへし折られたりしている。外部のものはレプリカである。
福岡天神から西鉄特急電車で30分、久留米に着く。そこで一階のバスセンタから八女営業所行きのバス(30番か31番系統)に乗り換え、約45分で福島高校前、そこから徒歩5分で磐井の郷である。手軽に行けるのもお勧めサイトである。歴史の一場面を館内の大型ディスプレイにボタン一つで映し出される。歴史資料も備えられている。また古墳周辺には、携帯でマークをカシャっと写せば、無料で説明する案内装置が設けられている。至れり尽くせりである。
国道3号線が磐井の古墳と、その他の古墳群を分断するように走っている。磐井の郷で説明を受けたり、一休みしてから、再び国道3号線に下り。反対側の丘陵を行けば次々に10kmにわたって古墳群があるので、おおよそ3時間のトレッキンングが楽しめる。ノルディックウオークなどのイベントもある。往復すると半日コースになるかも。まだ体験していないので、時間予測は不確実なものである。整備されているので歩くにはそれほどの困難はなかろう。



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by fusus-21 | 2016-09-01 10:59 | 地域(北部九州の古代)

郷土の歴史・・・国宝金印にまつわる話

後漢の光武帝は、倭国の使者に金印を授けた。前進する蛇が頭を持ち上げて振り返る姿に鈕がついている。しかし、よく見ると駱駝の形に作られたものを、蛇の形に作り変えられたものらしい。他には、亀鈕のものもあるらしい。

後漢書に「建武中元二年、倭国貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武印綬を持って賜う」とあり。まさに委奴国は倭国の極南界だったのである。北界は狗邪韓國、つまり、当時の倭国は狗邪韓國から委奴国まで海を跨いだ海洋国家とみなされていたことが中国の歴史書に記されている。

後漢書の他の行に、「大倭王は邪馬台国に居る。楽浪郡境は邪馬台国を去ること1万2千里で、倭の西北界狗邪韓国を去ること7千里である。・・」とある。以上のように後漢書ができた当時の倭国の領域が示されている。
多くの学者は、魏書が正しく、後漢書は後でできているから価値はないとか勝手な言い分を展開しているが、時代時代の情報として歴史の流動をきちんと読み取らなければならない。その時代に新たにわかったことがすこしずつ加筆されたり、修正がなされいているのであって、書き間違えでは決してないと思われる。素直に読むほうが正しいと思う。



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by fusus-21 | 2016-06-20 17:45 | 地域(北部九州の古代)

野芥にある神社

早良区野芥は古い土地で、昔の名残を残しつつ時が過ぎてゆく静かな街である。その中に、1300年の歴史を持つ神社がある。霊験厳かというか古墳のような鬱蒼とした原生林の中に静かに鎮座している。後方には油山が近い。
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早良六郷の総鎮守で、早良六郷には平群、額田、曽我、能解(のけ)郷が含まれる。野芥4丁目であるから我が家から坂道を降りてすぐである。境内神社の恵比須神社に今年の正月10日に参拝した。ウェブサイトを参照:http://sora07.exblog.jp/22360492/
早良六郷についてはウェブサイトより引用:
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さらにこのような説もある:『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。



変わり種の神社は石鎚神社である。早良区大字野芥3といういまの住所にはない山の中にある。油山の山腹である。
神社の裏から即、油山の登山口になっている。神社というが、本来は晃恩寺というお寺で、住職が神職を兼ねる神仏融合の神社である。登山口から険しい山道を行くと滝があるとのこと。未だ行ったことはない。というより初めて参拝したわけであるから。
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石鎚神社のウェブサイトから引用

お寺・寺院/晃恩寺の詳しい情報です!

■各種祈願
◇家内安全 ◇除厄開運 ◇合格祈願 ◇学業成就 ◇地鎮祭 ◇家祓い
◇安産祈願 ◇交通安全 ◇除霊祈祷 ◇商売繁盛 ◇他諸事祈願

■各種供養
◇先祖供養 ◇永代供養 ◇水子供養 ほか

■<発祥>西歴1789年6月
 昔、早良一帯が水不足で田植えが出来ず、雨乞いの為当山に不動明王を建立した。
 長い月日のうち先代住職隆泉大僧正が宝満山にて十年間の修行を終えて、
 当山晃恩寺にて五十年。
 現住職大観が19才の時真言宗得度出家し、修験道石鎚大神とご縁を載き、
 当山の神のお告げをもって、37才の折、入山し現在に至る。

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 ◇毎月第三日曜日 ご先祖様諸霊供養
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by fusus-21 | 2016-06-08 11:05 | 地域(北部九州の古代)

任那の存在・・・倭の北岸狗邪韓国              史書にあるがままに歴史を追う

今日は朝から雨だ。晴耕雨読の熟語通り、任那日本府に目を通し、*いき一郎氏の中国正史の古代日本(葦書房)と岩波文庫の古事記を参照し、事実関係を確認しながら過ごしている。熱は下がったようであるが、身体中がいたい。運動不足の表れであろう。*上記の著書の良い点は和訳のほか原文を全文掲載している点である。原文がないと著者の偏見が読者に刷り込まれてしまう。原文があるとおかしいと思った時に、そこに目を通して確認できる。

大平裕氏の任那日本府の著書に史書にあるがままに歴史を読む重要性が説かれている。同感である。私が以前から感じていた、魏志倭人伝の謎(後漢書東夷伝もほぼ同じ)、「倭は・・・・・・・ ・・楽浪郡境は邪馬台国を去ること1万2千里で倭の西北界狗邪韓国を去ること7千余里である。・・・・・・」である。狗邪韓国は倭の一部であると読み取れる内容である。しかしどの歴史書にも狗邪韓国は倭に属しているという書き方をした教科書はない。大平氏の著書で初めてであった。この領域に任那があったのである。458年〜479年に在位した新羅王によって初めて倭府という言葉が使われ、のち日本書紀にも見られる。高句麗の広開土王碑文に「任那」の文字が刻まれている。韓国の歴史に任那はないらしい。しかし、広開土王、中国の歴史書は明確に書いている。史書は間違いだとするのは韓国の歴史家にも、日本の歴史家、研究者にも多い。いまこそ両国の歴史を再考すべきである。

古代日本人(倭人)は海峡を渡り、大陸で経済活動を盛んにやっていた。韓大陸の南部に拠点を置き、北部諸国の混乱を横目に、小船を操り、中国の大国に朝見し、着々とその地位を築いていった。海洋民族の特技をほしいままにし、海峡を渡り、黄海をまたいで行き来した。海を思いのまま動き回った倭の海賊(水軍)の航海術が日本の基礎を築いたといえよう。

任那の存在を深く知ることは、古代の国際人であった倭人の活躍の舞台がどのようにして展開され、それがどのように衰退し、以後の鎖国につながってゆくのかという歴史を直視することにつながるであろう。その意味で「知っていますか、任那日本府(倭府)」を読むことは日本建国の歴史を学ぶ観点から重要である。

任那の成立する頃には(57年)、倭(委)奴国王が後漢に朝見、光武帝より金印を賜った。この金印は志賀島で発見され国宝になっている。さらに107年に倭王の帥升が朝見したと、九州にあった国の大王が日本の開国に努力している史実が書かれている。これらが文字による日本歴史の夜明けとなる。そして196年、倭国の大乱を経て卑弥呼の共立となる。古代史上最も有名な女王で、247年に没するまで邪馬台国に君臨した。その後、倭国は再び乱れ、殺し合う戦乱が起こり、卑弥呼の宗女を擁立し、戦乱は治まった。しかし、朝見は途絶え倭国はおよそ100年の間、歴史から消えるのである。100年の戦乱は、日本列島はもとより、韓大陸まで巻き込んだ大戦争だったらしい。それゆえに記録はむしろ韓国に残っているのであろう。その状況が大平氏の著書に詳しい。この一部分は、古事記に記された神武東征にあるが、先の理由により数百年時間的にずれて記録されている。大平氏によれば、卑弥呼以後の出来事であるとのことである。


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by fusus-21 | 2016-05-29 08:48 | 地域(北部九州の古代)

知っていますか、任那日本府・・・大平裕著          (古代朝鮮の歴史)

魏志倭人伝、後漢東夷伝、隋書、旧唐書、宋書、元史などに残された歴史と日本の古事記、日本書紀、万葉集、風土記などを付き合わせ学者の語る古代史と違う見方をしようと述べたが、古代韓国については歴史書を入手することが困難であった。そこで表記の著書をアマゾンで見かけ、購入した。

これは参考書としては素晴らしい内容であった。いいことに西暦と古代の日韓の出来事が詳細に記入された年表が巻末にある。嬉しくなった。この本と、榊原氏の著書、長沼先生の著書を読み比べると、今までにない日本史の原点が見えてきそうである。卑弥呼の倭国が、神武の倭国になり、崇神天皇の倭国から息長足姫天皇(神功皇后)の時代が270年から399年の間に存在した可能性が指摘されている。謎の4世紀が韓国の史実から解き明かされている。

日本書紀の編纂を命じた天武天皇が、天文学者・占星学者であったため、日本の国の始まりを最愛の草壁皇子の立太子礼があった天武10年を起点として1340年前に遡る2月11日を初国しらす天皇(神武天皇)の即位としたために矛盾が起こったとしている。ただ、天皇の数を増やすようなことはしてないので、天皇の在位年数などから実際の年代を推定できたとしている。もちろん、上記の中国史書などと照らし合せての推論であるから、著書の中で論理性はある。古事記や日本書紀を歴史書として価値を認めている。

神武天皇の即位は西暦250年、これに日向5代の在位50年を考えるとアマテラスの時代はおよそ200年頃からとなり、魏志倭人伝の卑弥呼の在位と重なるとしている。中国のガオ(郭)先生が卑弥呼は「日の巫女」を表すのではないか、つまりアマテラスではないのかとの考えとも一致する。

ポロトコタンに行った時、博物館の壁にアイヌ神話が描いてあり、アマテラスと「つきよみ」の神が描かれていた。ひょっとしたらアイヌは本土から追われて北海道に追い込まれたのではないかと感じた。そうでなければ同じ神話がアイヌ文化のもとにあることは考えにくいからである。戦いを好まぬ、したたかな縄文の民は、寒さにも耐えて生き延びてきたのかとも思えるのである。かつて日本列島に君臨していたのはアイヌ民族の祖先で、大陸から侵攻してきた弥生人に追い詰められたとも考えうる。彼らは朝鮮半島で鉄を掘り、稲を植え、馬を育てて戦力を高めた。

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by fusus-21 | 2016-05-27 20:31 | 地域(北部九州の古代)

 日本の始まりを漢字で記述した中国正史の数々

三国志・魏志倭人伝は3世紀の晋の陳寿によってまとめられた倭国の状況を記述する正史である。後漢書と宋書のうち、5世紀にまとめられたものが范曄による後漢書、宋書,南斉書は6世紀頃に編修された。梁書、晋書は7世紀前半に完成した。さらに隋書は7世紀の日本の状況を詳細に伝えている。旧唐書は10世紀にまとまった。

これらの正史を付き合わせると、日本の始まりがかなり見えてくる(西暦50年くらいから西暦800年くらいまで)。特に宋書、隋書、旧唐書は価値が高そうである。後漢書には魏志倭人伝の情報をもとに、それ以降にわかった情報を加えたり修正を行っている。

委奴国から邪馬台国、さらに倭の5王、聖徳太子の遣隋使やその後の遣唐使について非常に詳細な記述があり、客観的に中国からみた日本が記録されているといえよう。中国から見ると日本は非常に大切な国であったようだ。インドから来た使者の方が遥かに遠い国から来ているのに、日本からの方が遠くから来たとしてより高く評価している。

日本の始まりを理解するには中国正史を上記の他に後の世に編纂された宋書(上記の宋書とは別の史書で新唐書というべきもの)、元史(元寇の経緯や元のフビライが日本についてどう考えていたかなどがわかる)などを読まなければならない。これらを付き合わせて、矛盾点や新しく加筆された点などを詳しく見て行けば歴史がさらに明確に描かれてゆく。原本を読み、変な先入観を持つ歴史家と違った目で歴史を見てゆく必要がある。

一方、日本には古事記や日本書記、万葉集、各地の風土記などが残されておりこれは伝承として、またそれを聞き及んでいた当時の人が歌に読み込んだりして作られており、大切な文化・歴史遺産であるとしなければならない。初めから事実でないとか、書き間違いなどと断定しては見誤ることになる。素直に読み解くことが大切で、後の世の研究者が言ったことを鵜呑みにしては矛盾が矛盾を生むことになりかねない。

今回榊原氏の講演会を聞いて、また著書を読んで、長沼氏と榊原氏の論議は類似点も多いが違う点も多々ある。いずれも優れた内容の力作である。榊原氏の著書、西海道歴史紀行を購入したので、これと長沼九大名誉教授の著書、邪馬台と太宰府の両著書を参考に日本開国から元寇までの歴史を探ってみたい。

倭奴(猪野)国王、卑弥呼、神武天皇、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、倭の五王と磐井、斉明天皇、天智天皇、天武天皇の時代が見えてくるかもしれない。まさに歴史紀行である。私の日本史の知識は、栄高校時代に大井先生から習った、元寇までで止まっている。転校によって、それ以降(応仁の乱以降)の歴史は習わぬままになってしまった。

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by fusus-21 | 2016-05-14 23:43 | 地域(北部九州の古代)

榊原英夫氏による魏志倭人伝と邪馬台国を受講して

榊原講師の説によると、邪馬台国は春日市を中心として福岡市博多区南部にあったとされた。この辺りが弥生遺跡が日本全国でみても圧倒的に多いからだとしている。また奴国は伊都国から日向峠を越えて吉武・高木遺跡、また野方遺跡付近にあったと比定された。また、奴は「の」と読むと自説を強調された。

私の説は、邪馬台国は上の説に近いが、邪馬台国連合がこの付近、つまり春日市を中心として筑後川北部の広域にまたがっており7万戸を養うには筑後川沿いの地域が最も可能性が高いと考えている。王都は甘木付近で、朝倉郡には実際に後の世の天皇が行宮を築いていることからも有力視している。また、奴国は、多々羅川の流域にあり、特に川の北側の地域に比定している。ここは宗像に近く、香椎宮という天皇が住まいした宮があるほか多々羅川の上流には今も猪野川という地名があることで有力と考えている。そこには天照神社もある。猪野は「イノ」と読み、金印にある、漢「委奴(いの)」国王と同じ発音で読めること(榊原説により、奴を「の」読むことにする)、また金印の出土した志賀島は昔の糟屋郡であり、猪野も糟屋郡であった。金武遺跡(吉武・高木遺跡)は室見川上流にあり、早良郡に位置している。この地(吉武・高木遺跡)には日本最古の王墓があり、紀元前に栄えた地域である。従って、伊都国とは非常に関連が深い地域ではあるが、志賀島との関連が難しい。
不弥国も宇美説と穂波説が分かれる。筑豊の穂波(ホナミ・・・これを短縮するとホミと発音が似ている)があるのは遠賀川の上流であり、このような大きな川の流域には大きな人口があったとみてよかろう。宇美には宇美川があるが遠賀川よりは少し小さい(2級河川)のが少し弱い。宇美は神功皇后が応神天皇をお産みになった地とされる。宇美(うみ)神社がある。

注:委奴は漢書では倭奴と書かれているそうである。委も、倭も「い」と読むことはここではっきりする。私の説では倭国は「イコク」とよみ、大倭は「タイイ・・・タイー」と読む。
邪馬壹国 「ヤマイッコク」から邪馬臺国「ヤマタイコク」に変遷、さらに旧唐書で「タイ国」になったこととも矛盾しないからである。

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by fusus-21 | 2016-05-12 22:31 | 地域(北部九州の古代)

早良は邪馬台や奴国以前に興った王権の始まりの地・・これが日向峠を越えて伊都国に移動、さらに九州を南下して邪馬台国に連なる

今の早良区には、(ウェブ情報)和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7があったとされる。発掘調査で規則的に並んだ掘立柱建物群や鴻臚館でも出土した8世紀が出土したことから、郡衙は田部郷にあたる現在の有田二丁目交差点付近にあったと考えられる[2]が、近年になって同様の掘立柱建物群が早良区の南西部にある金武交差点付近や金武公会堂北側から検出されている[3]。また、郡内の駅家として額田駅が『延喜式』『和名類聚抄』に記載されており、建物跡は見つかっていないが、官道遺構の延長上にあり、地名も類似した現在の西区野方(のかた)付近に比定されている[4]。また金武付近には日本最古の王墓が出ている。これは糸島で発掘された平原遺跡より古く、また卑弥呼以前にここの地域に大王がいたということになっている。

前述の豪族がここにいたとすれば、この時代にまでさかのぼるとも考えられ、奈良付近で古代に活躍した平群、蘇我、額田などとのつながりが気になるところである。質問をすれば、これらの豪族は大和朝廷の命令で九州に降ったという回答が必ずある。よく考えてみると、中央からわざわざこのような後の世の僻地に豪族が降ってくるとは考え難い。やはり、ここで興った部族が、なんらかの形で新天地を求めて移動したとしか考え難いのである。
物部氏は九州に(縄文時代から)土着していた部族と考えられ、遠賀川や筑豊に土着していた民である。これらの部族は神武天皇の東征に従って奈良付近に移動したと考えるのが普通ではないかと思う。物部氏、蘇我氏、額田氏、平群氏などとして畿内勢力として栄えた。その残党も九州に残り、やがて奈良付近が栄えるにつれて、九州へと錦を飾ったり、侵攻したりしたとの考えも成り立つ。こうして連携したり、戦ったりしながら古代の国が形成され、やがて飛鳥、天平文化が形成されていったのであろう。当時、大陸に近く高いレベルで大陸の文化を獲得し栄えた九州は、戦乱にも巻き込まれ、徐々に衰退し、和をもって尊しとした畿内の文化圏が繁栄し、さらに徳川政権の誕生で江戸文化が全盛期を迎えることになってゆく。そして明治政府は御所までも東京に移し、東京が経済・文化の中心になったのが現状である。

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by fusus-21 | 2016-05-08 21:34 | 地域(北部九州の古代)

 邪馬台国の7万戸が生きてゆくための稲作

邪馬台国の比定地には稲作の適地であることが必須である。八女の南には矢部川(八女川)、筑後川、沖端川、塩塚川などが有明海に流れ込んでいる地域で、特に矢部川は塩塚川、沖端川、柳川に複雑に分流して流れ込むため、天然のクリークが縦横に走っている。これを巡って、柳川藩と久留米藩などで水争いが絶えなかったようである。このクリークは満潮時には潮が満ちて水没するが、底流は海水であるが、真水が表面をながれ表層水(あお)を利用しての稲作が盛んであった。これが古くからの知恵として豊かな稲作地帯を作り上げている。このような土地が古くは稲作地帯として栄えた地域の条件であった。大阪の河内、ここも古代には河内潟があり上の状況に似ていた。奈良盆地にはこのような大きな稲作地は見当たらない。また、遠賀川にも湿地が広がっていたらしく古遠賀潟と呼ばれていた。さらに上流の直方も広い湿地帯であったと言われており、ノウ潟が名として残っているのであろう。この地を支配していた宗像氏も多分、宗潟氏(宗潟を支配した人の意味)であった可能性もある。

江戸時代に柳川藩に入った田中吉政はこの地域の治水計画に熱心で、その結果、30万石と言われていた石高はゆうに70万石に達していたと言われている。その業績は今も川下りの観光で柳川市の財政的なメリットとなっている。

このようなクリーク地帯は古代から水沼の名で残されており、三潴郡(ミズマ郡)という地名を今にとどめている。

そのほか、八女を矢部川に沿って辿って行けば日向神神社があり、阿蘇に出ることができる。卑弥呼は阿蘇山の噴火で吉凶を占ったという。また景行天皇が熊襲征伐に遠征した時、この地では八女津姫に出会っており、この地が卑弥呼の都したところとするに十分な伝説を語り継いでいる。

こうなると、八女の女山の神籠石を見たくなった。

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by fusus-21 | 2016-05-06 18:00 | 地域(北部九州の古代)