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ハイダの食文化(蒸焼釜)

食文化については料理の専門家である山口さんに書いていただく予定ですが、器具についてはここに紹介しておきます。

蒸焼釜
ハイダでは、生ものはあまり食べずに蒸し焼きなどにすることが多いようである。蒸焼器がディックの小屋に設置されていた。
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薪にヘムロック( hemlock:常緑の高木)を使用して加熱し、
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におい付けには赤ハンノキ(red alder) が使われていた。
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マスやシャケ、肉類などこれで蒸焼きにして香ばしいにおいをつけて食べるためであるが、保存のためにもこの手法(燻製)が用いられるようである。
保存のためには天日干しもあり、「数の子昆布」の天日干しをお土産にたくさんいただいた。

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by fusus-21 | 2013-08-31 16:22 | サスティナブル ツーリズム

文字がなかったことによるハイダ族の不確かな過去

文字で歴史が残されていないため、ハイダの起源は推察の域をでない。ポピュラーな考え方として、アジアからアラスカ経由でやってきたという説がある。しかし、一方で、偶発的にアジアから日本海流に乗ってやってきたとの説をサポートするものもある。このような諸説はともかく、長い間、ハイダインディアンがこの島に生活を営んできたことは疑いない事実である。
文字がなかったために、ハイダの子どもたちは年上の身内から教育を受け、伝説や歴史的なおとぎ話を繰り返し、繰り返し、終わりなく脳に刻み込んできた。ハイダの人々の主たる住処はモレスビー島の東海岸やローズピット(島の北端)であった。
ハイダ族の居住地は海に面している。前には砂浜があり、カヌーを並べることができる。岩浜はカヌーの出入りには適さない。この観点から、クイーンシャーロット市はハイダ族の居住には向かない。西洋人が築いた街である。一方、Masset、Tlell、Skidegateはハイダ族の街である。砂浜が前面にあり、川が近くに流入することが必要である。クイーンシャーロットには川はなく、真水は井戸を掘って得なければならない。
各家の前面にはトーテムポールを海に向けて建てる。これをみれば、RavenかEagleの部族であるかを見極めることができる。まさに海に面した砦のようなたたずまいである。上陸の前に敵か味方を知ることが可能になっている。
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RavenとEagleはライバルであるが、敵ではない。婚姻関係で戦いの要素を和らげている。われわれが白頭鷲をみると大きな声を上げて、カメラを向けると、 ディックが面白いことを言った。 彼にとっては面白くないことである。「なぜそんなに騒ぐのか。鷲などたいしたことはない。しかしあなた方は鷲の方が好きなようだ。それでもよい! われわれは良い意味でのライバル関係にあるのだから。」イーグルは奥さんの部族の象徴であり、奥さんには頭が上がらないらしい。しかし、Ravenは自分の誇りである。RavenはEagleより早くこの島に住み着いたと考えられている。
白頭鷲に騒ぐわれわれの挙動をみて、ディックの幾分か寂しそうな笑顔が印象的であった。

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by fusus-21 | 2013-08-31 09:59 | サスティナブル ツーリズム

渡りガラス(Raven) は鷲(Eagle)とのみ結婚できる

この島には大きく分けて二つの部族が住んでいる。一つは、渡りガラス(Raven) と言われる。もう一方は、鷲(Eagle) である。各部族は、さらに小さい一門に分かれている。案内者をしてくれたディックは誇り高きRavenの一員である。RavenはEagle一門から嫁を迎えなければならない。同族との結婚は近親相姦とされ罪に問われる。 これは血を薄めるための強い掟である。 当然ながら、ディックの奥さんはEagleから嫁いだ。次は、母系制(母権制)社会であり、女が家長であり、子どもたちは母がたの部族に所属する。嫁がたとえ死んでも、子どもたちは母がたの家系に引き取られる。この社会では、男は戦いの戦士であり、女は政を行い、留守を護る。
この意味から、生まれた男の子はこの部族の長にはなれず、相手方の後継者となる。シャーマンについても同様のしきたりで引き継がれてゆく。シャーマンになりたければ、ビジョン(見通す力)が必要で、同時に幻覚を起こさせる能力が必要である。さらに少なくとも年に一度の儀式を経なければならない。病気をもたらすのは悪い精霊(Spirit)であり、病気を治すには神秘的なまじないで病んだ人から精霊を体外に追い出さなければならない。ハイダ族は宗教は持たず、精霊(良い精霊)を神として崇めている。
社会機構として、血縁関係とランクがある。ランクには3つある。貴族と平民そして奴隷である。貴族は少数である。そしてどのような社会にもあるように中産階級が大多数である。家の前にポールを建てる際に大きな穴を掘るが、奴隷はその中に埋められた(これは、イーグルの女性から聞いた話で、ディックからの話とは矛盾する)。また奴隷は売り買いされたとある文献にあった。

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by fusus-21 | 2013-08-31 09:57 | サスティナブル ツーリズム

カヌー製作技術


鉄は1000年以上昔から伝わっていた。有史以前のアジア諸国のように、ここでは西のエスキモーとの交易でもたらされたと文化人類学者は考えている。
太いRed Cedarが切り出され、そのまま放置され十分に乾燥させられる。北側には小枝がたくさん発生し、節があるので、これを上にして舟底には小枝のない方を選ぶ。手斧で削る作業については、厚みを決めるために長さの決まった細い棒を木の外部から打ち込み、内部から削り始める。打ち込んだ棒の先端が現れたところで削るのをやめる。この方法で丸太舟の厚みが決まる。厚みは経験的に計測されている。次に、内部に木の支柱を入れて船に強度を持たせる作業が始まる。彫り込んだ丸太の内部に水を入れ、熱した石を投入する。その上に婦女子の尿を加える(男子の尿はなぜかだめなようである)。石の熱で尿の成分が化学的に分解しその成分が木にしみ込み、木が柔軟性を持つようになる。このあと、デザイナーがカヌーの舳先の前に立ち、十数人の男が両側に分かれて引っぱり左右が対象となるように形を整える。この作業があの美しい芸術的なカーブを生み出す。ある程度、形が整ったら素早く、カヌーの長さ方向と直角に支柱を入れてゆく。座席の部分と手で支える部分に板や棒をしっかり入れるとあとは、化学的に広げられた船体が自然に収縮し、この支柱は釘等の金属で止めなくてもしっかり固定されるという。この支柱の数は座席と手でつかむ柱となるから乗船の定員に合わせて、すなわちカヌーの大きさに応じて合理的に決まる。船尾には舵取りを指示する座席(いわゆるコックスの座席)が設けられるが、ここは仮眠の場所としての機能もあるとのことであった。このあとは、船体の防水である。もともと赤杉には油が十分含まれているが、さらに樹から得た油脂を十分擦り込み完璧を期す。カヌーには2本の帆柱が立てられるようにする。四角い帆を張ることができる。これでほぼ完成になる。
舳先は太く角い形をしている。これは、相手の船にぶつけて、相手の船を壊す役割であり、かなり強度があるように作られている。軍船として機能を強化しているとのことである。
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また船尾の舳先には縦に溝が彫られていた。これは水しぶきがスムーズに選外に飛ばされるように考えられているとのことであった(Dick談)。流体力学の粋が結集された芸術性、機能性に優れたカヌーには、ハイダ族の能力の高さが垣間みられた。海の王者としての自信に満ちた解説であった。

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by fusus-21 | 2013-08-30 15:21 | サスティナブル ツーリズム

ハイダバイキングとカヌー文化


北海には海賊バイキングがいた。日本には倭冦がいて、14世紀、16世紀にしばしば韓半島の東南岸を襲った。西暦100年頃にも倭人がしばしば韓半島の東岸を襲ったという記録がある。北西太平洋にもバイキングがいた。ハイダバイキングである。”Viking of Pacific Northwest”と呼ばれた。倭人が海峡国家を築き、小船を自在に操り交易をしていたことは中国正史の魏志倭人伝に詳しく描かれている。ハイダ族も、高性能な大型カヌーを自在に操り、大陸との間を行き来し、交易を行った。しばしば、大陸に襲撃を仕掛けた。連行した奴隷は、自分たちのために強制労働させるのではなく、無人島で自活させ、帰還も自由だったという(このあたりはディックの話であり、真実性には懐疑的である。奴隷として村長の使用人にしたのではないかと推察している。)。島の人口を増やし、外的からの攻撃に備えたのかもしれない(あるいは人質か)。
ハイダ族は1800年代には7000人がハイダグワイに住んでいたと推察されている。これに加えて、アラスカ南部のカイガニ族が1900人ぐらいが住んでいた。彼らの村はアラスカ南部にもあった。ハイダ族は、まれに見る入念で機能化された社会組織を有していた。太平洋沿岸に住む勇敢で豊かな資源に裏付けされエリートインディアンとして、確固たる自信をもっていた。
その証拠は、彼らが製作するカヌーの機能性と芸術性にみることができる。芸術的要素と戦闘的な要素を見事に統一したつくりである。形状といい、防水性といい、際立って高性能にみえる。シダーの森の遺産を受け継ぎ、伝統的な技術に裏付けされたできばえである。一隻に20人が乗り組み、20日分の食糧を積み海上に乗り出した。からだには熊の油を塗り、真っ黒な墨(泥?)で皮膚を覆い熱を奪われることによる体力の消耗を避けることを知っていた(工学的な知識を経験的に知っていたのだ!)。黒い色は戦闘にも役立った。闇に紛れて攻撃することに効果的でもあった。櫂(パドル)は古代の矛の様な形に鋭利に磨かれていた。薄く、軽量で容易に振り回すことが可能であった。武器としては首を刈ることも可能であったという(Dick談)。
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長さは、先端を地面に置き、柄の先端が顎の下にくる程度とされた。一律ではなく、からだの大きさに合わせて設計されていた。

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by fusus-21 | 2013-08-30 14:29 | サスティナブル ツーリズム

城南歴史散歩

早良区に住んでいると、油山に源を発する金屑川、油山川が身近にある。また、早良区で最も大きな川は室見川であり、お隣の城南区(私の職場は城南区)には樋井川と七隈川がある。これらの河川流域に棲む生き物と共存しながら私たちは日々の生活を送っている。城南区は早良区、また中央区と南区、西区の一部とともに昔の早良郡であり、縄文、弥生、古墳文化の宝庫となっている。この地も開発が進んだが、今に残された自然や史跡等が消え去る前に私たちの記憶にとどめる仕事が大切になりつつある。早良区と城南区を生活の場とする私にとって、この記憶を保存する責任を感じる歳になった。そこで、仕事の合間に、カメラを片手に早良区や城南区を中心とした地域を歩き、残された自然や史跡を写真に収め、メモを残す作業をはじめた。少しずつではあるが、フェイスブックやブログに掲載しながら、紹介して行きたいと考えている。また地域共生学 (Studies on Sustainable Communities) の一環として、今後において様々な取組みと連携させながら、目的を達成したいと考えている。このような理由から、城南歴史探訪講座を受講するこ とにした。無料の講座はありがたいが、報告書の提出が義務づけられており、それに従い執筆することになった。
歴史探訪はまず川とそれに沿った丘陵から始める。桃崎教授の講義から興味を持った歴史的事実は、梅林と野芥のあたりは、祖原辺りで陸揚げされた大陸からの物品が運び込まれ、全国(九州と関西以西)からの人々が集い市が開かれた地域ということである。そうであれば、その荷はどのような経路で運ばれ、どのようなものが中心的な商品だったのかが興味深いところであろう。また、この地はその商品に更なる付加価値を与える技術を生み出した地域であるかもしれない。そのようにして富を築き、支配者となったものの墳墓が点在している地域でもあろう。これらの想定から、まず川と池と丘陵の状況を推察することから始めよう。
縄文の海進により、当時の海水面は今より2~3m高かったと言われている。また、野芥や梅林、片江の辺りは油山から流出する土砂で継続的に埋められてきたと考えれば、今より10mぐら い海抜が低かったとも考えられる。そうであれば、福岡大学、城南市民センターの周辺の低地は海であった可能性は高い。早良郡志(誌)によると「祖原の内は浅海が広がっていた」との記述がある。事実、草香江、荒江、片江などおそらくその地が渚であったような土地名が残っている。田島は浅海に浮かぶ島であり、その南には金山が小高い丘として存在していたと考えることができる。このような仮説に基づき、以下に示す地図上に、20mの等高線と10mの等高線を見いだし、10m以下の地域と20m以上の地域を浮彫りにしてみよう。
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確かに20m以上の場所には小笹、笹丘、友丘などの地名が残り、10m程度の海抜にある土地には多くの池があり、弓掛池、烏帽子池、西の堤池、小袖池などが地図上に見える。この地帯は昔はもっと海抜が低く、湾入していたと考えれ ば、その後の油山の鉄を含む赤土の崩壊や樋井川や油山川に運ばれた土砂で埋まり、逃遅れた海水が閉じ込められ、池ができたと考えうる。この地図を眺めてみると、友泉亭付近から、東南側に海が入り、上長尾の辺りまで広がっている。片江はまさに渚であったと推察できる。現在でも 島巡橋から福大側を見ると緩やかな上り勾配になっており、友丘のバス停から神学校にかけても上り勾配が明確で、かつてこの付近が渚であった様子を彷彿させている。
上記の川についてみると、樋井川は東油山に水源があり、油山川と七隈川は西油山に発する。七隈川は下流で樋井川に合流し、油山川は金屑川、汐入川と合流し、博多湾に注ぐ。ただし、これらの川は、現在のように直線的に流れていた訳ではなく、蛇行していたと思われるし、また堰があった訳ではないので、海水もかなり奥まで入り込んでおり、そのため満潮時は水量が多かったと推察している。むしろ浅海の中に水が流れ込んでいた可能性もある。こう考えると、これらの川は、周辺の田畑を潤すとともに、水路となって物品の輸送に使われた可能性もある。また、城南区の油山麓に点在する池や沼は、昔はもっと大きく、数も多く、船着き場や漁場であった可能性もあろう。柳川のような湿地帯を想像すれば、その利用価値を今に知ることができよう。これらの沼池は、かつてこの辺りまで海進があったことの証拠であると講義で聴いた。 また、「祖原の内側は浅海である」との古文書の記述もこれを証明している。この辺りは湿地帯 として水生植物の繁茂した食料生産地帯であり、そこに棲む魚類も豊かだったと想像できる。最近まで多くの沼地が残っていたが、福岡大学の進出に伴い、多くの池が埋められ、駐車場を経て校舎が建ち並んだ。ここ20年で弓掛池も消えた。烏帽子池も面積が半減した。このようにして自然からの恵みは消えていったが、教育という形での人つくりシステムがこの土地に残ったといえよう。当然ながら、人口の増加が油山の斜面を浸食し、民家が海抜150メートルを越えて存在するようになった。
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by fusus-21 | 2013-08-30 11:18 | 地域(北部九州の古代)

ハイダ グワイとの出会い


ハイダ グワイとの出会い(Introduction)

島の名前
この島を、私たちはハイダグワイ島と呼ぶ。西洋では、クイーンシャロット島とも呼ばれている。1783年8月3日にジョージ ディクソン船長が海洋交易が目的で、200トンの帆船に乗ってやってきた。この船の名前が、「the Queen Charlotte号」であった。彼の船と女王陛下に捧げる意味でこのような名前でこの島は呼ばれるようになったらしい。公式な最初の寄港は、1774年6月6日にやってきたペレス(Juan Perez)であると言われている。しかし、これより200年前の1566年に船が着いたという話、さらに1640年9月5日にマセット湾(Myhassetと記録されている)に入ったとの記録もある。しかし、これらの記録については異論もあり決着はついていない。以上より、ハイダの歴史は西洋の公式記録からは1774年に始まるとされる。アメリカ合衆国独立の2年前である。

以上の経緯にもかかわらず、私たちはハイダ族に敬意を表し、あえて「ハイダ族の島」、「Haida Gwaii」とこの島を呼ぶことにする。ハイダに残る地名は、詩的に、歌謡として、また様々な伝承のなかで口伝えされてきた。文字で記録され始めたのは上記の年代であったということに過ぎない。ハイダの文化、歴史はハイダ族の血に営々と引き継がれていることが、今回の訪問で明らかになった。

参考(wikipedia より引用):ハイダ族の歴史を尊重し、植民地的な名称であるクイーンシャーロット諸島の代替として1980年代初期に作られた造語が「ハイダ・グワイ」と言う名称である。
「ハイダ」は「我々」という意味だけではなく「人々」と言う意味であり、「ハイダ・グワイ」は「人々の島」という意味である。2009年12月11日に、ブリティッシュコロンビア州政府は2010年中頃にクイーンシャーロット諸島を公式的に「ハイダ・グワイ」に改名する法律を発表。2010年6月3日に法律は可決され改名が決定された。この改名はカナダの各層政府及び国際機関でも認知された。「世界の果ての島々」を意味する旧名である「ハアダラ・グワイ(Xaadala Gwayee、Xhaaidlagha Gwaayaai)」もまだ使用されている。

島の特徴
ほぼ北緯52度から54度、西経131度から133度に位置しており、総面積は約10,180平方キロメートルで、日本の岐阜県(約10,621平方キロメートル)よりやや狭い程度、四国の半分くらいの総面積に相当する。標高がもっとも高いMount Moresbyの山頂は海抜1,164mである。全島併せての人口は約3,800人と言われる。日本海流、黒潮が流れ込んでいるため、島周辺の海水は温かく、上空にはハワイからの風が入るため気候は温暖で、冬でも雪が降ることは少ないという。東北の大震災と津波で海に流出した品々が漂着し、ニュースになった。漁業で使われるガラス製の丸い浮きは装飾品として家に飾られ、またお土産品にもなっていた。収納庫に入ったハーレーダヴィドソンが漂着したのは有名である。一つの心温まるエピソードもある。コーディネーターのケタ(Keta Kosman) が、私たちが宿泊した「Sea Raven Motel」に付属する「Ocean View Restaurant」に勤めるローレライ嬢から聴いた話を伝えてきた。6年前にレストラン前の入り江の浜辺で1本のボトルを拾った。その中にはノートがはいっており、当時13歳の日本少女の電話番号が書いてあった。千葉の局番であった。2年間文通したが、今は途絶えた。この少女はいまは成長しているであろう。この少女はだれか、ご存知の方があれば連絡願いたい。このエピソードは、千葉沖を流れる日本海流がハイダにつながっている証拠として紹介しました。
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島には温帯雨林が発達しており、雨量が大変多い。もう一つ、日本とつながる話を紹介しよう。この島の植生は、北米大陸のそれというよりは、極東太平洋の植生に近い。日本は極東太平洋上に位置している。ハイダの島全体を覆うのは、Cedar (ヒマラヤ杉)の大木であり、檜も育っている。黄金エゾマツ(Golden Spruce) が珍種として大切に保護されていた。Europian Red Cedar (赤杉)の巨木はカヌー用に利用される。切り倒したあと放置して乾燥させるが、シロアリはいないため問題ないとのことであった。適切に処理されたのちに製作されたカヌーは80年の耐久性があるという(Dick談)。

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by fusus-21 | 2013-08-30 10:39 | サスティナブル ツーリズム

バンクーバーに帰還

23日、美しいハイダグワイを去り、バンクーバーに戻りました。ウィルダーネスの世界から、世界有数の文化都市バンクーバーです。ハイダ文化との対比はあまりにも大きいものであり、今更ながら人類の求める幸せの指標はどのようなものなのかを考えさせられます。自然と闘いながら生きる喜び、自然現象を制御して安全安心の中で生きる喜び、この価値観の相違をじっくり考える必要がありそうです。

バンクーバーの空港に到着後に直ちにスティーブストンに足を運びました。
スティーブストンに関してはすでに出発前に写真を紹介しました。フレーザー川に沿って村上音吉の住んだ家やシップヤードが歴史的建造物として残されており、19世紀に日本人が移り住んだ時代を再現しています。このオールドタウンに沿って、高級な集合住宅が迫り、5年前の原っぱの中に静かにたたずむ街の雰囲気はなくなりました。今回は、そのような訳で写真は撮影しませんでした(カメラの電池切れが本当の理由ですが、都市化の進んだこの地を撮る意欲も正直なかったと言うことです。)。
24日にはUBC構内を散策しました。新渡戸稲造記念庭園やMOAがあります。UBCのエリス先生が案内してくれるとの連絡を受けました。感謝です。

24日、UBC (the University of British Columbia ) を訪問しました。新渡戸稲造記念庭園に12時頃に到着、園内を散策しました。新渡戸はビクトリア(BC州)で客死しましたが、彼の遺志、「太平洋の架け橋になりたい。」を長く語り継ぐためにこの庭園が造られました。多くの人が世界中から訪れ、岩手県に生まれ、異国の地で亡くなった崇高な偉人を忍びます。感激しました。

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MOA (Museum of Anthropology) 、すなわち文化人類学博物館は新渡戸稲造記念庭園と隣接しています。ここで私たちは、UBCのエリス先生と合流、先生の案内で学内を巡りました。まず、Sustainabilityの拠点、CIRSビルディングに向かいました。これについては、内容を詳細に書く意味がありますが、ここではとりあえず写真での紹介にとどめます。太陽光を取り込み、雨水を利用し、エネルギーを生み出すビルですが、ロビンソン先生やコール先生の研究を核にして歩んでいます。環境未来オフィスと協定を結んでいるサステナビリティオフィスはこの建物の中にあります。
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建物の前で、エリス先生、教え子のドウンさん、エリス先生のお母さんとともに記念写真を撮りました。エリス先生は今年の4月から5月にかけて1ヶ月、ドウンさんは1週間、九重町地蔵原の地蔵原ヴィレジで福岡大学大学院生の指導をしながら地域研究に取り組みました。地蔵原ヴィレッジの主宰者である山口怜子さんとのバンクーバーでの再会を喜び合いました。

このあとはエリス先生がバイオマスガス化センターに案内し、研究内容等を詳細に説明されました。
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最後は生物多様性に関する標本を多数備えたミュウジアムを訪問し、時間オーバーの17時になりました。
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8月25日、エコセミナーチームは4人ずつに分かれ、1チームは帰国、もう1チームはバンクーバーからビクトリア、シアトルを経てバンクーバーからインチョン経由で帰福します。日本からの7名にバンクーバーから数名を加えた集団の活動はここまでとなります。9月2日には日本組は全員帰還予定です。
ハイダのWiFi環境が、回線の容量不足のため速報は文字情報だけとなりました。そのため、画像はバンクーバーからと帰国後に補足させていただきました。ハイダはいにしえの日本と類似したところが多く(例えば、海峡をまたいで海を支配したなど)興味津々の島です。今後、各論として詳細なまとめを行う予定です。できれば一部地域を再調査したいと考えています。

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by fusus-21 | 2013-08-29 20:04 | サスティナブル ツーリズム

晴天の中をグレアム島周遊 (LAND TOUR)

昨日と打って変わって晴天の中を北島周遊です。温帯雨林に入り、樹齢500年程度の、シダーに出会いました。何種類かのシダーは苔むし、天高くそびえていました。昨日はJamesさん、今日はDickさん(いずれもハイダの人)の案内で普段みられない場所に足を運ぶことができました。観光ルートとは全く違う本当のウィルダーネスの世界でした。夕食には、昨日捕獲した蟹が届いており、スターターとして味わいました。この日の行程を以下にまとめてみます。

案内者はディック(Dick Bellis)、ホテルを出てクイーンシャーロットの西部に向かいました。湿地帯に車を止め、40年前に生徒たちが作ったトーテムポールをみました。またディックさんのいとこであるマイクさんの作業場に入りました。飲んだくれていたが、最近改心し、その芸術センスを活かして彫刻を始めたとのことでした。このあと、バスは引き返し、海岸線に沿ってスキジゲイト(スキディゲイト)に向かいました。ミュージアムに隣接したKaay Centre in Skidegateに立寄り、ハイダの芸術作品である大型のカヌーの作り方、利用法等の講義を受けました。この家屋は、昔のハイダの部落に似せて、並んだ建物にはそれぞれ海岸に向かってトーテムポールが立っていました。砂浜には昔はカヌーが多数並んでいたはずです。
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この芸術的なデザインのカヌーは20人程度が20日分の食糧を乗せて航行できる軍船のようです。南はカリフォルニア、北はアラスカまで航行できるとのことでした。この製作法を詳細に説明されました。後日、詳細をまとめます。

そのあと、ディックの自宅を訪問し、もてなしを受けました。大切なお客への昔ながらのもてなし料理とのことでした。

食後は、孫娘(ハイダとマオリの混血)の〇〇さん(名前を覚えられませんでした)が太鼓を打ちながら見事な声量で歓迎の歌を振る舞ってくれました。何人かが、歌につられて踊りました。踊りがバラバラで、とうとうお嬢さんが笑い転げて歌にならなくなりました(私も得意の阿波踊りや安来節:どじょうすくいを披露したかったのですが、夜中の非常ベルの誤動作でほとんど睡眠できなくて、寝不足で腹を壊していたせいもあり、それどころではありませんでした。)。孫娘のしぐさを見つめるディックじいさんの笑顔がすばらしいです。
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このあと、ディックの工房や燻製製造器(蒸焼器)の説明がありました。

昼食は「ジャングルビーチ?」で海を眺めながらいただきました。

この日はいろいろな人と出会えました。若手のイーグル族のリーダー、彫刻家、金属小物の制作者を紹介され、会話に花が咲きました。

ホテルへ向かう前に、ポート クレメンツ付近に立ち寄り、黄金エゾマツ(Golden Spruce)の苗木をみました。厳重に管理されていました。次いで、ナイクーン州立自然公園で心なき人に切り倒された黄金エゾマツが川越しにみれた地点に行きました。その間に、樹齢500年の大杉、空洞のある樹をみながら、ハイダの歴史、地域の自然、森の伝説、ハイダ族の生活様式等を歩きながらの説明を受けました。
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Wikipediaから引用した在りし日の黄金エゾマツ(Golden Spruce) です。切り倒されていなければ、きっとこのように見えたことでしょう。心なきこの男はこのあと逮捕されましたが、裁判に向かう中で逃走したそうです。
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その後の行程で茶摘みが始まりました。
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宿泊所のハイダホテルの前を流れるTlell川です。この川にはシャケの第一陣がきているらしく、大きな魚が跳ね上がるのが見えました。釣りをしている人もいました。写真奥手の川幅の狭いところを熊が渡ってこちら岸に上陸しました。シャケを狙っての遡行のようです。
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明日からはバンクーバーです。空港から、スティーブストンに向かいます。これに関してはすでに紹介しました。フレーザー川に沿って村上音吉の住んだ家やシップヤードが歴史的建造物として残されており、19世紀に日本人が移り住んだ時代を再現しています。このオールドタウンに沿って、高級な集合住宅が迫り、5年前の原っぱの中に静かにあった街の雰囲気はなくなりました。今回は、そのような訳で写真は撮影しませんでした(カメラの電池切れが本当の理由ですが、都市化の進んだこの地を撮る意欲も正直なかったと言うことです。)。
24日にはUBC構内を散策します。新渡戸稲造記念庭園やMOAがあります。UBCのエリス先生が案内してくれるとの連絡を受けました。感謝です。



Haida House玄関前の川をわたって熊が現れましたが、人間を襲うためではなく、魚を捕獲するためのものです。熊も夕食が必要で、川面をはねる大型のさかなを穫りにきたようです。そろそろシャケが上がってきますので、その先陣だったかも知れません。熊にとては我慢できないごちそうだったのでしょう。鷲はすごい数と出会いましたが、熊は一頭だけでした。貴重な出会いでした。
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by fusus-21 | 2013-08-23 15:42 | サスティナブル ツーリズム

悪天候の中をモレスビー島へ(BOAT TOUR)

21日は悪連行の中、ジェイムス(James Cowpar) の操縦するボートでモレスビー島に向かいました。大荒れで、ルイーズ島には距離的に無理、すなわち好天に向かわない場合には帰れなくなる恐れがあり、急遽、あまり人の近づかない太平洋側(西側)に行くことになりました。雨と波しぶきで塩まみれになリながら、ハイダ島の廃村あとにトーテムポールを訪ねました。
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ルイーズ島よりは近くですが、観光地になっていないだけに、迫力は抜群でした。人を寄せ付けない急峻な断崖を左手にみながら、入り江にボートを着けて上陸、道なき道、ふっくらとした苔に覆われた道らしきものをたどってようやくトーテムポールに着きました。この村は、Cha'atl (Tsaalth in Haida) と呼ばれ、昔にハイダ族数百名が住んだところです。島の名前はCha'atl Islandでエンゲルハルト湾の入り口、太平洋に面したモレスビー島の西海岸にあります。東海岸と違って、開発は制限され、ほとんど人は近づかない場所です。ハイダの人の楽園と言えるでしょう。苔の絨毯に寝転んだり、道なき道を進みました。私は、苔むした切り株を「仙人の椅子」として腰掛け、至福の時を過ごしました。
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住居(長屋)や多くのトーテムポールはすでに朽ち果て倒壊した柱等も苔で覆われていましたが、1本のトーテムポールだけが一族の誇りを表すように、林立する木立の中にすっくと立ち続けていました。鷲(イーグル)家系の女性が同伴されましたが、トーテムポールに向かって伝統の歌を捧げられました。それに応えて、日本からのチームは君が代斉唱で応えました。
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帰りは、かなり天候も回復し、途中でしかけた罠を引き上げたところ、ダンジネス蟹の大漁でした。
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この蟹の一部は翌日の宿泊場所である、ハイダハウスの夕食に届けられます。途中でアザラシの群れや釣り人につり上げられたキングサーモンなどをみれ、雨中の行軍には思わぬ収穫もありました。出発は白頭鷲に見送りされ、着船時にも停泊している船のマストのてっぺんで出迎えを受けました。白頭鷲は賢く、漁船の帰る時間を知っています。ハイダの人々とは信頼関係にあるようです。この船に乗り込んでいる日本語を話す女性はイーグルの血統ですから、当然と言えば当然ですね。
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このあと、Keenawii's Kitchenにてディナーをとりました。典型的なハイダ料理です。食事の内容は乾燥させた数の子昆布(Flat dried herring roe on kelp : k'aaw), 乾燥岩のり(dried seaweed : sguu), ソッキーサーモンの燻製(dried smoked sockeye salmon : ts'ilji), タコボール(octopus ball : naaw)、その他、燻製室から取り出したばかりのブラック コッドの燻製(dried smoked black cod)など盛りだくさんのメニューでした。最後に、デザートとしてブルーベリー、ラズベリーなどを混ぜ合わせたパイがでました。満腹するまで食べました。すべて周辺で穫れる山の幸、海の幸で調理されたものです。ハイダは潮が引けば夕方の食卓ができるというほど豊かな幸に恵まれ、店屋に食料を買いに行く必要はないとのことでした。潮が引いた海岸の岩を持ち上げればタコがいる、岩には岩のりが付いているなど食材には事欠きません。これらの写真や詳細は、後ほど料理専門家の山口怜子さんにまとめてもらいます。

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by fusus-21 | 2013-08-22 16:01 | サスティナブル ツーリズム