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15000年前と2200年前の日本・・・大きな異質の流れ

15000年前の日本列島は氷河期における大陸の凍結で今より150mも海面が低かった。従って間宮海峡もベーリング海も海底がむき出しになっており、日本列島とユーラシア大陸は陸続きになっていた。当然ながら、朝鮮海峡や玄界灘も150m低く、福岡大学の辺りは海抜150mの山地であった。従って油山で猪や鹿を狩って生活していた人々が住んでいたことになる。その後、温暖化による海進(海侵)がおこり、福岡大学付近は浅海に浮かぶ島となったのである。
15000年前、北からの人々が陸続きの日本列島に渡り、さらに温暖な西や東に移動し、アラスカやハイダグワイを経てさらに南米へと移動した。これはインディアンとして北米大陸、南米大陸を支配したのである。日本ではアイヌといわれる毛深く、彫りの深い人が住んでいて、これは日本全域に及んでいたのではないかと考えられている。この時代には北方の方が気候的に厳しく、南に向かう流れが大きかったと推定される。寒冷なシベリアやモンゴルの辺りから南への移動が大きな流れとなっていたと思われる。沖縄の人も九州南部の人もやはり毛深く彫りの深い人々の血がつながっている可能性は高い。一方、2000年ぐらい前には韓半島を経て人が移動した。これはそれほど毛深くなく、どちらかといえばのっぺりした彫りの浅い顔立ちの民族であったらしい。彼らは鉄を運び、馬を連れてきた。同時にアイヌ等の先住民族を北と南に圧迫していった。北部九州から入り、畿内まどを支配していったのであろう。この二つの流れが日本人という民族の文化的基礎をもたらしたと考えられる。2200年前の流れは、日本列島を二つに分けるように進み、北部九州から出雲、敦賀を経て南へそして北へ移動した。当時の日本は大きな山のあるフォッザマグナによって北への侵攻は阻まれた。また南にも阿蘇山や九重山、祖母連山等の地理的風土が同じ役割となった。また畿内は、紀州(熊野)とは異なる地域になったのである。四国山地の南側と熊野(今の和歌山県)は古くは南海道といわれる地域であったのである。海ではなく、山が南北を分けたのである。阿蘇付近と吉野川、紀ノ川を通る構造線が地域を分けたと考えられる。

いずれにしても北部九州が日本列島への玄関として発展していたのである。もう一つに出雲と敦賀付近も玄関口となり、古代文化の拠点となっていた。出雲からは備前への道がつながり、敦賀からは琵琶湖を通って畿内とつながっていた。このような東アジアの民族の大移動の中で日本の文化が島国として独自に発展していいったと考えられる。



by fusus-21 | 2014-07-31 20:51 | 地域(北部九州の古代)